表札の歴史について
現代の日本では、玄関や門扉などに所有者もしくは居住者の氏名を明記した表札を掲げるのが常識とされていますが、個人情報を堂々と開示するという無神経さが外国人には理解しがたく、どうにも異質な風習としか映らないようです。
外国人が奇異に感じるのも当然で、世界中を見渡してもステータスを誇示する以外の目的で、自宅に表札を掲げるのは日本や韓国くらいで、通常は住所表示のみを表記しており、治安の悪い地域や国では、それすら表示してない状況です。
もっとも日本でも個人より血縁関係を基礎とする「家」が絶対視された時代には、寺院以外には表札など掲示せず、江戸時代には家紋や屋号が表札の代用をしており、それで十分だったのでしょう。
では、なぜ日本では表札が普及したのか時系列で追ってみましょう。
1.苗字(名字)政策の転換
明治3年(1870年)平民苗字許可令を発布
明治政府は庶民(平民)に対する苗字の名乗りを禁じた江戸時代の名字政策を一挙に転換したことで、庶民から賛同を得られるはずが、庶民(特に農民)は税の徴収のための方便ではないかと疑い、苗字使用の申請には消極的だったようです。
なお、江戸時代には庶民に苗字がなかった訳ではなく、公的な場での名乗りが原則として禁止されていただけで、私的な場での名乗りまでは禁じられていません。
戸籍管理などの行政手続上の必須要件でも、従前から苗字のあった庶民(農民を除く)にとって、わざわざ許可を求める積極的理由がなかったのです。
明治8年(1875年)平民苗字必称義務令を発布
苗字許可令が遅々として進まないことから、苗字の名乗りを法的に強制する手段に訴えたのがこの必称義務令であり、ここから徐々に名字が全国に普及していったものと思われます。なんだかマイナンバーに通じるようにも感じるのは、きっと私の思いすごしでしょうね。
2.戸籍制度の制定
明治4年(1871年)戸籍法を制定
この翌年から本格的な戸籍制度が開始されましたが、現在の戸籍とは異なり、個人の本籍や現住所の他に、犯罪歴、病歴、土人や非人などの旧身分まで列記されており、この戸籍は現在では行政文書としては廃棄処分になっています。
3.郵便制度
大化2年(646年)に制定の「駅伝制」が古代の通信制度の始まりといえます。
この制度は律令制の衰退とともに消滅、地域領主単位の伝馬制になり、鎌倉時代に飛脚が登場すると、これが通信の主役の座に就き、江戸時代に飛脚問屋の制度が発達すると、通信機能がこれに重点が移していきました。
ちなみに駅伝制の名残として、現在でも「箱根駅伝」などの名称が残っています。明治4年(1871年)、郵便に関する太政官布告によって日本に郵便制度が誕生。通信機能が画期的に進化したのですが、当初は郵便を扱う郵便役所や郵便取扱所の数が少なく、「東京⇔京都⇔大阪」間だけで始められました。
明治6年(1873年)、江戸時代には地域の有力者とされていた名主(なぬし)に、その自宅を郵便取扱所とする旨を要請していたが、この年には全国一千を超える名主らが郵便取扱所の創立を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大しました。
4.徴兵制
富国強兵は「国家の経済力を発展させて軍事力の増強を促進する」という中国春秋戦国時代(紀元前770~同221年)の諸侯の政策をいいますが、日本では幕末頃に盛んに論じられるようになり、改革政権である明治政府は「西洋に追いつけ、追い抜け」を合言葉に富国強兵に突き進みました。
明治3年(1871年)徴兵制の前段として徴兵規則を制定
各府藩県より1万石につき5人を徴兵することを定め、続いて翌年には三藩(薩摩・長州・土佐)の軍が親兵として編成、この兵力を背景に同年7月「廃藩置県」が断行されました。要すれば武士階級の反乱に対する事前の備えだったのです。
明治6年(1873年)徴兵令を布告し太政官布告による国民皆兵制を制定
徴兵制度の開始を宣言したのは良いが、徴兵の免除項目が多数あり、どれも有力者の子弟らには有利なものであったことから徴集は難航、しかも江戸時代には参戦義務を原則除外とされていた農民が反発し、一揆など一連の騒動が待ちあがりました。
紆余曲折はあったものの、一連の制度制定により国家体制を強固なものとして現代国家への礎を築いていき、日露戦争や日清戦争を通じて、国民に自分は日本国民だという国家思想が浸透し、国家に対する信頼性や自信が醸成されていくのですが、まだ表札の習慣は登場しませんでした。
5.関東大震災
大正12年(1923年)、この当時の日本災害史上最大級の地震「関東大震災」が発生。被災者190万人、死者・行方不明者10数万人、全壊・全焼家屋32万軒以上という大被害をもたらせました。
地震後、関東各地の寺院には、家族の安否を尋ねる人々の住所氏名が記された紙が貼りだされましたが、そこに大きな問題が生じました。
記帳した人々の多くが被災者で、元の住所で暮らしておらず、別の場所に移転していたり、間借りしていたのですが、被害家屋は半壊・半焼を加えると40数万軒を超えており、特に被害が人口密集地の東京・神奈川に集中したことから、住所氏名だけで 目的の家を探し当てるのは困難だったのです。
そこで考え出されたのが、住居の門前に氏名を表記した表札を掲示することで、訪問者が他人の家とたり、迷ったりする心配を減らすことなのです。
さいごに
このように表札掲示の習慣は、明治政府の一連の制度とは直結しませんが、これらの制度がなければ、住所の確定も氏名の確定もできなかったことでしょう。
ここから表札が一般社会に浸透していきましたが、情報化社会が進む現況からは、表札はいずれ消滅する定めかもしれませんね。